広島の変化と歩み vol.1 ”特徴と古代~中世編”

広島の歴史

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nwavelog lab.

人生の研究所へようこそ!

私は、現職の異動で広島に来て

もうすぐ7年になろうとしています。

ご縁あって住むことになった

この広島について

綴りたいと思います。

広島という土地柄や人柄、

歴史・現在・未来について

数回に分けてお届けしたいと思います。

こんな方に向けて

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これから広島で生活が始まる

ビジネスマンや学生さん

そして、広島県民の方にも

ぜひご紹介したいです。

まずは広島の主な特徴と

歴史についてご紹介したいと思います。

広島のこれまでの歩みを知ることで

この土地や県民、文化について

ご理解して頂ければと思います。

今回の参考図書

広島出身元日銀マン

現在は広島文教大学教授

松原淳一さん著

広島は変わる!広島の経済

参照させて頂いております。

広島の土地・気候・県民性

広島の土地

広島県、岡山県、山口県、

鳥取県、島根県

5県を「中国地方」と呼びます。

西の重要地方「関西」と

「九州」の中間に位置する地域として

「中国」と呼ばれています。

そして、広島県はこの中国地方で

広域中心都市として重要な

位置付けに当たります。

平野が少なく、決して

恵まれた土地柄ではありません。

山を崩した傾斜地に多くの住宅が立ち並ぶ。

農耕地も少なく、農業生産力は低く

中世までは目立たない都市でありました。

広島の気候

広島は、温暖な気候です。

県北は冬になるとスキー場が

運営できるほど積雪しますが、

県民の多くが住む瀬戸内海沿岸は

小雨温暖な気候です。

台風は、四国山地や九州山地に

ぶつかってから直撃するため

影響はそこまで大きくはないです。

日本最多の土砂災害危険箇所

2014年、2018年の豪雨災害

広島県は、土砂災害に苦しんで来ました。

花崗岩・真砂土のため

雨が降ると崩れやすい地質で

先述の通り、山地や傾斜地に多くの

住宅が建てられていることもあり、

崖崩れや地滑りなどの被害が多いのです。

広島の県民性

広島県民の特徴

・楽天性

・勤勉性

・情報感受性

瀬戸内海の温暖な気候に

培われた楽天性

他県への出稼ぎや

海外移民が盛んであった歴史から

培われた勤勉性

関西や九州の中間に位置しており

街道や海路では人・もの・情報が往来し

培われた目端の利く情報感受性の高さ

これらが影響した特徴と言えます。

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それでは、広島のこれまでの歩みを

古代から見ていきましょう!

古代

古代より広島県は

東側「備後国」、

西側「安芸国」と

呼ばれていました。

山陽道の街道の一部であり

瀬戸内海の海路の一部という

いわば畿内と九州を結ぶ

通り道でありました。

平清盛と厳島神社

1146年から1156年まで

平清盛は安芸守になり

厳島神社を建立。

日宋貿易の拠点としても栄えた。

呉市の音戸の瀬戸を開き

大宰府に影響力を及ぼし

貿易を拡大しました。

厳島神社の祭神は

航海安全の神様である

宗像大社(福岡県)の

3女神であり、日宋貿易での

博多と畿内を結ぶ瀬戸内海航路の

安全祈願を目的に建立されました。

厳島神社は、当時の広島が

関西と九州を結ぶ海道の

一部であった立場の

象徴とも言えます。

中世

戦国時代、中国地方には

  • 尼子氏(山陰地区)
  • 大内氏(山口・九州北部地区)

の二大勢力が出現。

広島県(安芸・備後)は

この二大勢力の境目に

位置していました。

いくつかの領主が分割支配し、

尼子氏大内氏のどちらかに

協力しては対立することを

繰り返していました。

そんな中台頭したのが毛利氏です。

毛利元就大内氏と協力関係を築き

戦国の世を生き抜きました。

毛利元就

三本の矢」で知られる戦国武将で、

長男毛利本家を継ぎ

次男は広島県北の国人吉川家

三男は竹原・三原の国人小早川家

それぞれ養子となり跡取りとなった。

こうして、毛利・吉川・小早川

三家が協力し、尼子・大内という

二大勢力の間で勢力を拡大しました。

1555年

厳島合戦で大内氏の元家臣である

山口の陶晴賢を打ちました。

1566年

三家の兄弟は、中国地区の

ほぼ全域を領有する大名となりました。

毛利輝元と広島城

毛利元就の孫、毛利輝元

本能寺の変直後に豊臣秀吉と和睦し、

中国地区のほぼ全域を領有する

大大名となりました。

それまでは、吉田郡山城(安芸高田市吉田)

に本拠地を構えていましたが、

1589年から太田川の河口付近の

三角州デルタに広島城を築き、

本拠地としました。

関ヶ原の戦い

1600年

天下分け目の戦いと称される

関ヶ原の戦いにおいて、

毛利輝元西軍(石田三成側)

総大将となりました。

吉川家は徳川家康と

毛利領安堵の密約を

結んでいました。

西軍についてはいたものの

徳川勢有利との見解から

毛利家領土を守るため

裏で動いたのです。

小早川家は東軍(徳川家康側)へ

寝返り功労者となりました。

関ヶ原の戦い以降

結果として毛利家吉川家

中国8カ国112万石の大大名から

周防・長門(現山口県)の2カ国29万石へ

減封となりました。

小早川家は備前・備中の大大名と

なりましたが、世継ぎに恵まれず

衰退をたどりました。

そして、徳川政権下で広島は

新たな領主と文化を

築いていくことになります。

三本の矢

「1本の矢では簡単に折れるが、

3本まとめると容易に折れない。

3人共々がよく結束して

毛利家を守ってほしい」

晩年の毛利元就は3人の子供に告げました。

のちに兄弟は、

毛利本家・吉川家・小早川家

三家の結束をもってあ

中国地方全域を支配しました。

現代にも引き継がれる逸話であり、

多くの企業やチーム、元首相までも

引用されています。

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今回は、広島の特徴と

歴史(古代〜中世編)をお届けしました。

次回もぜひお楽しみに!

みなさま、今日より素晴らしい明日をお過ごしください。

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