広島の変化と歩み vol.3”戦後~現代編”

広島の歴史

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nwavelog lab.

人生の研究所へようこそ!

私は、前職の異動で広島にご縁があり

7年間お世話になった第二の故郷です。

ご縁あって住むことになった

この広島について

綴りたいと思います。

過去の記事はこちら

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今回は第三弾

戦後〜現代

ご紹介したいと思います。

広島のこれまでの歩みを知ることで

この土地や県民、文化について

ご理解して頂ければと思います。

参考図書

今回の参考図書も

広島出身元日銀マン

現在は広島文教大学教授

松原淳一さん著

広島は変わる!広島の経済

参照させて頂いております。

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それでは、戦後〜現代の

広島をみてみましょう!

戦後復興期

終戦後、広島は「世界平和の発祥地・聖地」として

模範的近代都市」を目指すべく

復興を進めて行く事となるが

原爆の被爆もあり、全国以上に荒廃しており、

課題も多くその道のりは厳しいものでありました。

広島平和記念都市建設法

1949年5月に国会で可決され

同年7月に日本で初めての住民投票において

過半数賛成を得て8月6日に公布・施行された法案です。

経緯

先述の通り、戦後広島は全国以上に荒廃しており

財源不足が課題であり、

思うように復興が進みませんでした。

そこで広島が復興財源として考えたのが

国有財産の無償払い下げ(譲与)を認めることでした。

つまり、戦前に国が保有していた

旧軍事施設や跡地を無償にて

払い下げしてもらう事を提案したのです。

広島県内には、陸海軍兵器廠、造船・製鉄所が多数ありました。

ここを経営資源として目をつけ、

復興の加速を企図しました。

しかし、戦後復興は全国的な課題であり

広島市だけに国有財産を譲与する訳にはいかず、

国を説得する必要がありました。

そこで、草案されたのが「広島平和記念都市建設法」という

特別法の制定でした。

広島市を平和記念都市として建設するために

国は、普通財産を贈与することができる事を

法案に盛り込みました。

そうして、広島市では国有財産の無償払下げが進められ

平和祈念資料館、慰霊碑、大集会場などを備えた

平和記念公園などが建設されました。

原爆ドーム

一時は取り壊しが検討されていた

原爆ドームは1996年に世界遺産に登録されました。

人類史上初の核兵器が使用された

その惨禍と核兵器廃絶、

そして世界平和を訴える象徴として

世界中の人たちにメッセージを発信し続けています。

旧軍港市転換法

戦後の呉市

戦後の呉市は、進駐軍の管理下におかれ

船舶関係の仕事は制限され、

多くの設備は賠償撤去対象

(戦争の賠償として撤去される)とされていました。

呉市も同様に度重なる空襲の被害を受けており、

一時は40万人と言われていた人口は

約15万人まで減少しました。

広島市の「広島平和記念都市建設法」を先例に

呉市をはじめ、海軍の鎮守府が置かれていた

横須賀・佐世保・舞鶴と合わせ旧軍港4市

国に対し、旧軍用財産施設を無償または低廉な価格で

払い下げの請願を行いました。

さらには、平和産業港湾都市に転換更生する事

目的とした法律の制定を国に働きかけ

GHQ了解の上、1950年に特別法として

旧軍港市転換法」が可決されました。

製造業進出による発展

「旧軍港市転換法」が可決された後、

  • 日亜製鋼呉工場
  • 米ナショナル・バルク・キャリア社呉造船部
  • 呉造船所
  • 尼崎製鉄呉製鋼所

など多くの工場が呉市に進出しました。

戦後復興の思わぬ追い風

1950年6月

朝鮮戦争が勃発し、

当時GHQの閉鎖命令が下されていた

播磨造船所呉船渠」に対して命令が撤回され

船舶の修理が可能となりました。

1952年4月

サンフランシスコ講和条約によって、

広島県内の造船設備は、

軍事賠償施設指定を解かれ

民間造船会社として再出発することとなりました。

こうして呉市は、製鉄・造船の町として

戦後復興の道を進みました。

高度経済成長

広島生産県構想

戦前の広島県は、多くの企業が

軍需産業に依存していました。

しかし、敗戦により軍需がなくなったことから

軍需から民需への大転換を

進める必要がありました。

県民一人当たりの所得を

全国水準まで引き上げることを

目標に打ち出しました。

第1次生産県構想

4つの重点産業振興

農林水産の振興

商工業の振興

交通網の整備強化

治山治水の確立

旧呉海軍工廠をはじめとした

旧軍施設への企業誘致などにより

1958年の一人当たりの県民所得は

1950年の2.9倍と全国水準を上回りました。

第2次生産県構想

臨海工業地帯の造成整備を重点的に推進する」こととなり

宇品地区の臨海工業地帯などが増築され、

1955年ごろには大竹市、呉市を中心とする

旧軍施設への企業誘致が積極的に行われました。

 三井石油化学工業(株)

三井グループ興亜石油は、

岩国旧陸軍燃料廠跡地の払い下げを受け、

三井石油化学工業(株)を設立し、

日本初の石油コンビナート

1958年から操業を開始しました。

復興期を支えた製造業

広島県の沿岸部では、

鉄鋼・化学・造船・自動車等の産業が

急速に発展し、戦後の復興を牽引しました。

そして、広島県のみならず

日本を代表するメーカーや

業界へと発展を遂げました。

日本鋼管福山製鉄所(現JFEスチール)

1961年、福山市日本鋼管(現JFEスチール)の

第4製鉄所の誘致が決定しました。

1962年にから広島県・福山市が工業用地を造成し

1973年までの第5期に渡り設備増強により

1975年には粗鋼年産量1343万トンを達成し

当時の世界最大の製鉄所となりました。

マツダ

当時は、主にコルク栓の生産を行う

東洋コルク工業」という会社を前身に

機械工業への進出をし1972年に「東洋工業」と

社名を改めました。

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ここでピンと来た方も

いらっしゃるでしょう。

そうです。

広島東洋カープの”東洋”は、

東洋工業からの由来です。

現在もカープ球団の筆頭株主は

マツダ創業家の松田家ですが、

球団経営への積極的な関与はせずに、

球団の独立経営にて運営されています。

戦前は、呉海軍工廠の兵器製造の

2次下請でした。

1931年には自動三輪トラックの

生産を開始しましたが、

戦時中は歩兵銃やその他軍需用の

航空機生産を主に担っていました。

戦時体制下、工場は大増設され

1936年下期から1944年下期にかけて

従業員は9.8倍、売上高は16倍

資本金は15倍に増加しました。

また、東洋工業本社は

広島市中心部より少し東部へ離れた

府中町にあったため、原爆による被害が小さく

多くの生産設備を有したまま

戦後へと向かっていきました。

戦後はGHQの許可の下、

自動三輪車などの生産を再開し

その後、四輪自動車へ進出し

現在までの発展を遂げました。

造船業

戦時中の広島は、

東洋一の建造能力を誇る

呉海軍工廠をはじめ、日立造船因島・向島両工場

三菱重工業広島造船所などの大造船所から

中小造船所が多数立地していましたが、

敗戦により軍需の消滅と共に

海運業は破綻状態となり

多くの造船設備が遊休化する事態となりました。

こうした状況下、各企業は方向転換を余儀なくされました。

三菱重工業広島では

鍋、釜、フライパン、犂(すき)、

鍬(くわ)などを製造

日立造船では

寺院の梵鐘を製造していたとの事です。

また大型船舶の建造に充てられるはずの船台で

小型船舶や漁船を建造しながら

民需への転換を進めていったとの事です。

上記の2社は戦後、建造工法の革新もあり

国際競争力の工場から輸出船も手がける様になり、

1952年には戦艦「大和」を生んだドック

当時世界最大級のタンカー

ペトロ・クレ(3万8千重量トン)」

進水し、その後も次々と世界最大級タンカーが

建造されていきました。

県内造船業は、全国の約2割を建造する

日本造船業の中核として発展しました。

リョービ

1943年に広島県府中市に

(株)菱備製作所として設立され

ダイカスト(アルミニウム、マグネシウム、亜鉛などの

合金鋳造技術)製品の製造が始まりました。

設立当時は、航空兵器の部品などを

製造していたと言われています。

金型製作から後処理まで自社で行う

一貫体制」は現在でもリョービの

強みとして知られています。

戦後は、自動車メーカーとの取引を開始し成長をとげ

世界的なダイカストメーカーとなりました。

食品業界

田中食品

旅行の友”や”のり.たまご”の

ふりかけで有名な田中食品。

創業は呉市で、もともとは味噌、漬物、

のり、佃煮を製造する企業でした。

第一次世界大戦時に、

海軍が高温・高湿にも耐えれる

新しい保存食の開発

依頼したことをきっかけに

ふりかけが誕生しました。

戦時中のふりかけは、

兵糧としての軍需物資でしたが

戦後は家庭にも普及していきました。

カルビー

戦時中はの松尾糧食工業として、

胚芽を粉にしたものや

さつまいもなどを入れた

団子などを代理食として

軍需工場や学校に収めていました。

戦後は、旧宇品陸軍糧秣支廠跡地の

払い下げを受けることができ

食糧難であった戦後に、

健康的で栄養のあるお菓子をめざし

かっぱえびせん”が誕生しました。

1955年にカルビー製菓として再スタートし、

日本を代表する食品メーカーと成長しました。

衣料品

古くは江戸時代に福山藩を中心に

綿の栽培と綿木綿の縫製が盛んでした。

現在でも綿デニム全国50%のシェアを占める

日本一のデニム産地として発展。

戦時中は、軍服の生産が栄え

現在は、ワーキングウェアの生産額で

全国の50%以上を占めます。

流通業・量販店

広島市の中心部(中島町・紙屋町・八丁堀周辺)は

原爆により甚大な被害を受けました。

このため、一部の老舗に加え

戦後の闇市から成長した企業もありました。

福屋百貨店

広島を代表する老舗企業であり、

八丁堀本店は、

数少ない被爆建物として知られています。

現在の広島は、県外から進出してきた

天満屋、三越、そごうがあります。

八丁堀と紙屋町を結ぶ本通り商店街

1954年にアーケードが設置され

中四国地区最大の商店街です。

イズミ

現在は「ゆめタウン」や「レクト」を展開する

スーパー業界全国売上高4位を誇るイズミは

広島駅前で山西商店という社名で

露店としてスタートしました。

フジ

現在は「フジグラン」を展開する「フジ」は

1950年に設立された

「十和織物(現:アスティ、ヨンドシーホールディングス)」の

小売部門として、愛媛県松山市に設立された後、

広島に上陸しました。

現在は、スーパー業界売上高11位まで成長しました。

エディオン

久保兄弟電気商会として1946年に創立しました。

第一産業ダイイチデオデオと社名を変更し

2002年にエディオンとなりました。

広島県内最大の電気店へ成長しました。

現在の広島

広島市は、札幌市・仙台市・福岡市と共に

広域中心都市」として

中国地区の中心都市となりました。

大企業や官公庁の地方統括の

支所を設置しており、

札幌・仙台・広島・福岡は

支店経済」とも言われています。

これからの広島

とりまく環境

人口減少

製造業の海外シフト

農林水産業のブランド化

外国人観光客の増加

以上の環境変化を

ネクストステージにギアチェンジすることが

課題となっています。

まとめ

大量の失業者

使用見込みのなくなった旧軍事施設

この二つを経営資源として活かし、

民需へ大転換することで

復興を果たした広島。

高度経済成長を経て、

中国地区の中心都市へ成長を果たしました。

今後も課題は多く

発展のためにも立ち向かう必要があります。

nwave
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これから、広島はどのようにして

発展していくのでしょうか。

古来から常に知恵を絞り、

荒廃した更地から

再び立ち上がった広島の

今後にも注目していきたいですね。

みなさま、今日より素晴らしい明日をお過ごしください。

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