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人生の研究所へようこそ!
私は、現職の異動で広島に来て
もうすぐ7年になろうとしています。
ご縁あって住むことになった
この広島について
綴りたいと思います。
広島という土地柄や人柄、
歴史・現在・未来について
数回に分けてお届けしたいと思います。
今回は第二弾。
江戸〜近代を
ご紹介したいと思います。
広島のこれまでの歩みを知ることで
この土地や県民、文化について
ご理解して頂ければと思います。
今回の参考図書も
広島出身の元日銀マンで
現在は広島文教大学教授の
松原淳一さん著
広島は変わる!広島の経済を
参照させて頂いております。
それでは、江戸時代から近代の
広島を見てみましょう!
関ヶ原の戦い以後、
徳川幕府が樹立され
広島は毛利輝元に変わり、
福島正則が安芸・備後2カ国の
太守として広島城へ入封しましたが、
広島城を無断改修し武家諸法度の
とがめにより、信濃国川中島藩へ
転封されました。
そして、豊臣政権下で
五奉公を務めた
浅野長政の次男
浅野長晟が安芸1国・備後8郡
42万6千石で入封し、
以後、明治維新まで
浅野家が藩主となりました。
江戸時代後期、
全国的に人口は停滞していました。
原因は、この時代の中心産業は農業であり、
農業生産力に合わせて堕胎・間引きなどによって
人口調整が行われていたといわれています。
そんな中、安芸・周防・隠岐・出雲など
中国地方では人口が増加した藩が多かったのです。
その理由は、熱心な浄土真宗信者
(「安芸門徒」と称される)が多かったことが
影響しているという説が有力です。
殺生を禁じる教義に従い、
出産を選択する信者が多かったのではないか
と考えられています。
先述の通り、広島は耕作地面積が少なく
人口の増加は食べていくには
大きな問題となりました。
そんな中、広島の人々が取り組んだのは
山を開墾し棚田(段々畑)をつくりました。
また、棚田に水を供給するために
多くのため池を作りました。
そうして、広島は全国1位の棚田と
全国2位のため池の数となりました。
手間をかけて農作物をつくるという
勤勉さがうかがえます。
しかし、それでも食べていくには
苦しく多くの人が他国へ出稼ぎへ出ました。
山稼ぎは木挽として、奈良県や岡山県へ
船稼ぎは他港の船に乗り込み従事しました。
安芸国の出稼ぎ者は、専門技術を身につけ
粗衣粗食に耐え、誠実で働き者で
「安芸者」と呼ばれました。
そして、のちに特産物を生み出したのです。
- 安芸木綿
- 和紙
- 広島牡蠣
- 熊野筆
広島藩はこれらの特産品の生産を
奨励する事で、少ない農耕地と
増加する人口を養うための
政策を行いました。
広島藩の白木綿・縞木綿の名称で、
沿岸・島部で盛んに栽培されていました。
農地は少ないが人手は多い広島では
江戸時代では木綿を栽培し
米を買う農家が出てきました。
開国以降、明治にかけては
安価な輸入品が出回るようになり
安芸木綿は衰退していきました。
広島藩は、紙漉き(かみすき)を
奨励し、佐伯郡と高田郡を中心に
紙職人が多く出現しました。
明治以降は安価な洋紙にシェアを
奪われてしまい衰退しましたが、
伝統産業として大竹和紙などは
伝承されています。
現在でも広島の特産品と言えば
この「牡蠣」を思い浮かべる方も
多いのではないでしょうか。
歴史は江戸時代をさかのぼり
1532年〜1555年あたりの安芸国で
養殖方法が発明されたと言われています。
殻付の牡蠣を大阪湾に運び
船に座敷をひいて振る舞う
牡蠣船が流行し、大阪で食されている
牡蠣のほとんどは広島産でありました。
現在では「熊野化粧筆」として
ブランド化した熊野筆は、
江戸時代に生産が始まりました。
熊野地区は小さな盆地で
農地が少なく、農閑期には
奈良県や和歌山県へ出稼ぎへ行って
生計を立てていました。
出稼ぎで稼いだお金で奈良の筆を仕入れ
帰路の途中にそれを売り
稼ぎを増やしていました。
その流れで自分たちで筆作りをはじめる
若者が出てきて、熊野で筆作りが盛んになり
全国的に知られる様になりました。
明治時代になっても人口過剰問題は
課題でした。
江戸時代に発展した特産品は
開国とともに海外製の安価なものに
代替えされより厳しさを増していきました。
そこで、広島の人たちは出稼ぎに出る
人が増加いたしました。
・北海道での開拓移住
・九州での炭鉱
・関西の紡績工場
などが主要な労働供給先となりました。
さらに、全国の中でも
一際、多くの人が参加したのが
海外移民としての渡航者でした。
特に1885年の日本とハワイ王国で
結ばれた協定による
ハワイ官約移民を歯切りに
広島県からは1万122人の労働者が
渡航し、全国の38.2%を占めました。
①人口が多く、平野が少ないため農業だけでは食べれない
②江戸時代から他国へ出稼ぎに行く風土があった
③江戸時代に発展した産業が衰退し、新たな働き先が必要であった
以上の理由から、全国で最も多くの
海外移民を輩出したのです。
1872年
明治新政府は、日本陸軍の鎮台を
広島に設置しました。
明治政府は、反乱鎮圧と対外防衛のための
備えとして、全国に鎮台を配置していました。
広島は、中国地区最大の都市であった事、
また、地政学上で長州の抑止力の役割も
期待されていました。
のちに陸軍第5師団となります。
鎮台が設置されて以降、
広島には国の出先機関が多く設置され
中国地区の政治的重要拠点となりました。
1880年
広島県令として赴任した
千田貞暁は、広島の産業が振るわない
原因を物資の輸送が円滑でない事に
課題を見出し、宇品港築港と道路改良を
進めました。難工事の末1889年に完成した
宇品港でしたが、その価値があまり評価されて
いませんでした。
しかしその5年後の1894年に
日清戦争が勃発し宇品港は陸軍の軍用港として
重要な役割を果たす事となりました。
山陽鉄道が広島駅まで開通し、
広島駅から宇品港を結ぶ
軍用鉄道が開通し
広島の第5師団は、宇品港から大陸へ
出兵して行きました。
また、明治天皇が軍を指揮する
大本営が東京から広島第5師団司令部庁舎に
移されたり、第7回帝国議会は
広島の仮議事堂で開催されるなど
日清戦争下は、日本の第二の首都の様な
位置付けでありました。
千田貞暁は男爵となり、
広島市内には、千田町ができ
千田神社が建設され、
千田公園には千田貞暁の銅像が
建てられました。
その後も宇品港は、
台湾や清国への定期航路が開かれ、
広島の産業発展へ大きな役割を担いました。
広島は日清戦争終戦後も
ロシアとの衝突を予想して
軍事関連施設の拡充が進みました。
明治中期以降は、軍事用の
食品や繊維製品などの工場生産が
始まり広島の近代産業の発展と
日露戦争やその後の太平洋戦争に
向けて軍事関連施設は増強されて行きました。
てつのくじらと呼ばれる潜水艦や
海軍カレーで有名にな呉市が、
海軍拠点となったのは
第日本帝国が1886年に
第2海軍区の鎮守府が設置された事に
はじまります。
また、当初から軍港としてだけでなく
造船、兵器工場の重要拠点としての
位置付けとなっておりました。
呉には海軍の造船施設が多数集積し
戦艦や航空機の製造や
それに伴う製鉄工場や
工具、部品工場が集積しました。
戦艦「長門」、航空母艦「赤城」
そして世界最大の戦艦として知らる
戦艦「大和」が建造されました。
また、呉市広(ひろ)には
呉海軍工廠広支廠が設置され、
その後、広海軍工廠となり
航空機の製造を行いました。
一方、陸軍は竹原市の大久野島に
陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所と
呼ばれる毒ガス工場を設置しました。
ピーク時には約2000人が6616tの
毒ガス製造に携わり、一部はマレー海戦で
使用されました。
大久野島は、現在たくさんの
野うさぎで囲まれた観光地として
その負の歴史を伝承しています。
そして、軍事的拠点としての発展が
広島に壊滅的な悲惨を
受けるきっかけとなったのです。
1945年8月6日午前8時15分
人類史上で初めて、原子爆弾が
広島市の中心地に投下され
壊滅的な打撃を受けました。
日本は、米軍の本土上陸による
領土が二分化しても戦える様に
東西に総司令部を設置していました。
東は司令部東京の第1総軍
西は司令部広島の第2総軍でした
広島は西日本の総司令部の位置付けでした。
その他にも陸軍船舶司令部、
中国軍管区、中国憲兵区、中国憲兵隊などが
配置され4万人以上の軍人が駐留していました。
また、中国地区の中心であった広島は
中国地方総監府、中国海運局、広島控訴院、
広島鉄道管理局、広島逓信局、広島財務局の
官公署、日本銀行、勧業銀行、日本通運などの
支店が置かれていました。
米国ではドイツに対抗して
1942年から原爆開発のため
「マンハッタン計画」を進めていました。
1944年9月に米国ルーズベルト大統領と
英国チャーチル首相との間で
対日原爆使用について合意がされました。
京都
広島
小倉
新潟
以上の4都市でした。
京都はかつての都であり
戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で
日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、
京都への原子爆弾投下は除外される事になりました。
その代わりに長崎が候補地と上がったのです。
その後、新潟も候補からはずれました。
広島
小倉
長崎
となりました。
広島は、重要な陸軍拠点であり
兵員の積出港もある。
市街地や人口の規模から
第1候補地となりました。
アメリカ軍の気象観測機
B-29が3機
マリアナ諸島テニアン島北飛行場から離陸しました。
ストレートフラッシュ号は広島へ、
ジャビット3世号は小倉へ、
フルハウス号は長崎へ。
B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が
「リトルボーイ」と呼ばれる
ウラニウム原子爆弾を搭載し
離陸致しました。
エノラ・ゲイは広島上空で
リトルボーイを投下しました。
目標は広島市の中央を流れる
太田川が分岐する地点に架けられた
T字型の橋「相生橋」でした。
リトルボーイは、広島県産業奨励館
現在の原爆ドームの中心から
約160m南東の地点
上空580mで爆発しました。
目もくらむ閃光を放って炸裂し、
爆心地周辺の地表面の温度は
3,000~4,000度にも達しました。
強烈な熱線に加えて
半径1km以内の人が50%の
致死量に上る放射線量400ドラが
四方へ放射され、
最大風速440m/秒、
最大爆風圧3.5kg/㎠の
超高圧の爆風とりました。
熱線、放射線、爆風の
3つが複雑に作用し広島は
火の海と化しました。
その後、核分裂生成物を含む
「黒い雨」が長径29km、
短径15km北西方向に楕円形区域で
降り注ぎ、さらに被害を拡大しました。
全数を把握したものではないが
広島県による死者数は
1945年11月30日時点で
7万8,150人の推定である。
そして原爆症と呼ばれる
後障害が深刻となり
1950年までに5万人の
被爆者が亡くなりました。
広島市の原爆被害に加えて
呉市、福山市は数度に渡る
空襲による壊滅的な
被害を受けました。
広島は全国の他県以上に
厳しい状況から立ち上がらなければ
なりませんでした。
軍事産業へ依存していた
産業構造は崩壊し
民間需要への方向転換は
必須となり、戦前からの
製造技術と県民性で
再び立ち上がって行くのです。
今回は、
広島の歴史
(江戸〜近代編)をお届けしました。
次回もぜひお楽しみに!